理性は狂気を逃れることはできるのか——ミシェル・フーコー『狂気の歴史』から考える人間的思考の条件
開講期間: 2026年11月8日 〜 2027年2月14日
隔週日曜日20:00〜21:30(日曜日が3連休の中日にあたる場合は翌週)
難易度: 発展※ 難易度についてはこちらを参照ください。
内容紹介
これは17世紀の哲学者ブレーズ・パスカルの言葉です。パスカルはここで、人間が必然的に狂った存在であること、そして「狂っていないこと」は「狂っていること」と異なるものではなく、それ自体もまた別種の狂気なのだと述べています。
パスカルのこの言葉から約300年後、20世紀を代表する思想家・歴史家であるミシェル・フーコーは、大著『狂気の歴史』をパスカルのこの言葉の引用から始めました。すなわち、この「別のあり方をした狂気」についての歴史を作らねばならないのだと。そしてこの別のあり方をした狂気こそが、やがて「理性」と「狂気」を互いに分離させることになるものなのだと、フーコーは書いています。
理性と狂気という、一見したところもっともかけ離れているようにみえるこのふたつはどのように関係しているのでしょうか。私たちは通常、理性と狂気をたがいに相反するものとみなし、狂気とは理性が失われた状態だとみなします。そしてそれは人類が知性を獲得して以来、不変のことがらだと思いがちです。
しかしながら『狂気の歴史』によれば、狂気と理性はまさにパスカルと同時代頃から、すなわちフーコーが「古典主義時代」と呼ぶ17世紀から18世紀にかけて分離され、たがいに対立し合うものとなったのです。フーコーはその過程を、従来の思想史的な領域をはるかに超えて、さまざまな制度や法律、学問の変化などを追いながら跡づけていきました。
本講座でとりあげるのは、『狂気の歴史』において描き出された、この「理性」と「狂気」の物語です。はたして、理性とは狂気の不在であり、狂気とは理性を失った状態なのでしょうか。それとも理性と狂気はなにか内的な関係をもっているのでしょうか。理性が狂気と切り離せないのだとしたら、理性はいかにして正当なものとして確立されるのでしょうか。私たちの思考が理性的なものとみなされるかぎりにおいて、これらの問いは私たちの思考そのもののあり方を問うものです。
ところで、こうした問いは、『狂気の歴史』の出版から約2年後、ジャック・デリダがフーコーにぶつけた問いでもありました。「コギトと狂気の歴史」と題された講演においてデリダは、フーコーが論じている「古典主義的理性」とは理性の単なる一例でしかなく、そもそも理性そのものが、その起源以来、「狂気」と関係しながら存在してきたのではないかと論じたのです。
表面的にはデカルトの解釈をめぐって展開された両者の応答は、かえって2人の問題意識の違いを際立たせているようにも見えますが、いずれにせよフーコーもデリダも、理性は狂気との何らかの関係のうちにしか存在しないのだという点は一致しています。本講座ではこうしたデリダによる批判も検討しながら、フーコーによる理性と狂気の物語を追っていきたいと思います。フーコーもデリダも私たちの思考そのものの基盤を問い直そうとしていました。そのことの意味を、いまあらためて考えてみたいと思います。
各回内容
まず初回に『狂気の歴史』全体の枠組みを確認します。特に「死」が大きな主題として存在していた中世末期から、「狂気」が前面に出てくるルネサンス時代、理性と狂気が分離されていく古典主義時代という流れを、フーコーが参照していた文学作品(ブラント、エラスムス)や絵画作品(ボス、ブリューゲル)なども参照しながら確認します。それによって、狂気に対する意識が批判的意識と悲劇的意識の二つに分裂し、やがて前者が後者を覆っていくという流れを確認します。
第2回から第5回にかけて、『狂気の歴史』の重要な論点を確認していきます。とはいえ、フランス語版原書で650ページ超(初版時)、日本語訳も上下二段組みで550ページを超えるこの大著の議論をすべて細かに見ていくわけにはいきません。そこで『狂気の歴史』において取り上げられているいくつかの象徴的な存在を取り上げ、その周辺の論点を確認していくという方法を取りたいと思います。
すなわち、古典主義時代における狂気の排除を象徴するデカルト(第2回)、19世紀以降に分離される狂気と非理性がいまだ結びついていた最後の人物とされる「ラモーの甥」(ディドロ、第3回)、ルネサンス以降押しつぶされていった狂気の悲劇的経験を古典主義時代末期から近代において継承するサド(第4回)、狂気の声に耳をかたむけつつも、それを知の対象として固定してしまうフロイト(第5回)の4名です。この4名を、背景となる歴史的事象とともにとりあげることで、『狂気の歴史』の骨格がつかめるはずです。
第6回ではデリダによる批判を検討します。デリダはフーコーによるデカルトの読解を批判しながら、理性と狂気の関係性そのものを歴史的なものを超えて突きつめていきます。そして、「哲学とは、自分は狂っているかもしれないという不安に抗いながら、狂気にもっとも近づいて獲得されるこの保証のこと」なのだと述べるとき、デリダとフーコーのあいだの距離はどうなるのでしょうか。両者の視点の共通点と差異を考えてみたいと思います。
最後の第7回では、これまでの議論を振り返りつつ、フーコーのその後の仕事にも目を向けながら、全体をまとめます。
※受講者はアーカイブ(録画)の視聴が可能です。リアルタイムで授業に参加できない場合も見逃しなく受講できます。
※途中参加の場合も、全授業のアーカイブ動画をご覧いただけます。
※アーカイブ動画は、最低1年間視聴可能です。
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授業予定
中世から古典主義時代へ—狂気の主題化
第2回 2026年11月29日(日)20:00〜21:30
デカルトと狂気の排除
第3回 2026年12月13日(日)20:00〜21:30
ディドロ『ラモーの甥』における狂気と非理性
第4回 2026年12月27日(日)20:00〜21:30
サド——狂気の悲劇的経験
第5回 2027年1月17日(日)20:00〜21:30
フロイト——「狂気」の確立と精神分析
第6回 2027年1月31日(日)20:00〜21:30
デリダによる批判——「コギトと狂気の歴史」
第7回 2027年2月14日(日)20:00〜21:30
まとめと展望
※ 授業の進捗等により予定が変更になる場合がございます。予めご了承ください。
こんな人におすすめ
デリダの思想に興味がある人
20世紀のフランス哲学に興味がある人
人間の思考そのものを考えてみたい人
講師情報

授業スケジュール
次回開催
2026年11月8日 20:00 〜 21:30
第1回 中世から古典主義時代へ—狂気の主題化
参加可能人数: 無制限2026年11月29日 20:00 〜 21:30
第2回 デカルトと狂気の排除
2026年12月13日 20:00 〜 21:30
第3回 ディドロ『ラモーの甥』における狂気と非理性
2026年12月27日 20:00 〜 21:30
第4回 サド——狂気の悲劇的経験
2027年1月17日 20:00 〜 21:30
第5回 フロイト——「狂気」の確立と精神分析
2027年1月31日 20:00 〜 21:30
第6回 デリダによる批判——「コギトと狂気の歴史」
2027年2月14日 20:00 〜 21:30
第7回 まとめと展望
理性は狂気を逃れることはできるのか——ミシェル・フーコー『狂気の歴史』から考える人間的思考の条件
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